​法音寺大日堂寺歴

法音寺の開創

岡大日如来「法音寺」は、天平元年(729年)聖武天皇の勅願により、行基菩薩と印度の波羅門僧正の両高僧により開創されました。

その後、弘法大師空海が北陸地方巡錫のみぎり、お立ち寄りになられ真言密教を布教されたと言われています。

しかし、貞観(863年)から寛治(1091年)年間の度重なる越後の大地震や大津波により、寺の堂塔伽藍は悉く破壊流失しましたが、その後、嘉承元年(1106年)、越後の国領主で平家一族の城永基が災害後の領地復興と鎮護の為、三カ寺を建立しました。

​奥山の荘(中条・黒川・関川地方)は乙村・乙宝寺、白河の荘(水原・安田地方)は華報寺、そして加治の荘(新発田・北蒲原中部地方)が当寺・岡田村法音寺です。

​特に法音寺本尊「金剛界大日如来」、乙宝寺本尊「胎蔵界大日如来」の二体は、一本の御神木で彫られたと伝えられ、古くから深い信仰を受けてきました。

鎌倉幕府の勃興

その後、源平の合戦で平家は敗れ、鎌倉幕府が興りました。

しかし、当地では平家一族の城氏が依然として鎌倉幕府に対抗していた為、常に源頼朝の傍らで仕えた近江源氏の佐々木三郎盛綱(以下、盛綱)がその制圧を命じられました。

城氏を制圧した盛綱は、当地・加治の荘を拝領しました。盛綱は他にも上野・伊予・讃岐・児島を拝領しましたが、当地を本拠地とし、源平の合戦で被害を受けた法音寺を再興しました。

そして法音寺を佐々木加治氏の祈願所ならびに総菩提所としました。

その後の主君、源頼朝の急死に際し盛綱は、その供養の為に法音寺境内に五輪の供養石塔を建立。

自らは「加治入道西念」と名乗り、法音寺に帰依したのです。

​この供養塔は源頼朝の供養石塔として現存する二つのうちの一つであり、新発田市指定文化財となっています。

法音寺の廃寺と再興

法音寺はその後、加治氏一族及び領民の深い信仰により七堂伽藍封後の堂塔を誇り、下越地方の名刹として栄えます。

しかし、天正9年(1581年)上杉景勝と新発田重家の間での約7年に渡る抗争と、上杉家移封後の越後の領主・堀氏による真言宗寺院弾圧の為、法音寺は壊滅します。

​元和元年、大坂夏の陣の年(1615年)、俊賀上人はこの名刹の荒廃を悲しみお堂を建立します。

​これが現在の本堂です。その後、復興しつつも明治初年、神仏分離令の発令と廃仏毀釈という法難により法音寺は廃寺となりました。

明治41年。岡田村より法音寺の再興を懇願された現住職の先々代が浦新田の本明院より入寺。

先代住職とともに再興事業に携わり、現在に至ります。

余談ですが、歌舞伎に有名な「藤戸の合戦」があります。

藤戸海峡での戦いで、水軍を持たない源氏に対し、平家は「渡れるものなら渡ってみよ」と船上から挑発します。

源氏が歯噛みをする中、佐々木三郎盛綱は浦の若い漁師に刀や衣服を与え、馬が渡れる程の浅瀬を聞き出します。そして、2000メートルの藤戸海峡を浅瀬に沿って一気に渡り、平家を討ち果たします。

この合戦で敗れた平家は翌年、壇ノ浦で滅びることになります。

この壇ノ浦での合戦前、例の浅瀬のことが他に漏れてはまずいと、佐々木三郎盛綱は浅瀬を案内した若い漁師を殺してしまいます。(佐々木三郎盛綱は鎌倉幕府が成立した後、この若い漁師を懇ろに弔ったとされています。)

若い漁師の血で染まった岩「藤戸石」は将軍石と呼ばれ、なぜか権力者に愛されます。

細川家、足利家、織田信長、豊臣秀吉、と巡った「藤戸石」は、最後は京都醍醐寺に落ち着きました。

​「藤戸石」がある醍醐寺三宝院の庭園は国宝となっています。